絶賛公開されている『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観ました。
エヴァを観てする事と言えば考察ですが、なんだか納得のいく考察サイトを見つけられなかったので
簡易考察を書きたいと思います。
ちなみに私は特別エヴァファンというわけではなく、
解釈ミスがある可能性がありますので、
そういう風な捉え方もあるのねくらいに思っておいてください。
(間違っていない自信があることだけ書きましたが)
ネタバレを含むため、観視聴の方は本記事は読まないことをお勧めします。
■前提(エヴァという作品について)
エヴァンゲリオンが社会現象とまでなった、1995年。
バブルが弾け、日本は右肩上がりに成長し続ける、未来は良くなるという
神話が崩壊して間もない、薄暗い時代を象徴したのがこのエヴァンゲリオンでした。
そのエヴァンゲリオンを、新劇場版として再構成したシリーズ完結作。
言うなれば、あの時代を体験した人々がどこか心の中に持つ、
不況、IT化による人間関係の希薄化といったほの暗さ、
”平成”を終わらせるのがこの作品であり、
「さらば、全てのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーになったものと思われます。
■アスカとケンスケの関係性についての違和感について
アスカとケンスケは結ばれたような描写の数々。
作品を観ながら、私はこんな事を思っていました。
「もしかして本当に、そこまでやるのか?」
レイとアスカと言えば、日本のアニメ界で一世を風靡したヒロインです。
レイとアスカを超えるヒロインを挙げろと言われたなら、ちょっと待てと言わなければならない程の知名度・人気を持つキャラ。
もしかしたら初恋のメタファー的な存在と言えるかもしれません。
そのキャラが、シンジではないキャラと結ばれることで、
エヴァンゲリオンから強制的にさよならさせる。
考えられる手法ではあるけども、禁じ手に近い。
まさかと驚きつつも、そのようなメタ的解釈とは別にいくつか違和感を感じていました。
ケンスケはアスカを式波と名字で呼ぶ、家にいるのはちょっとした用事?(明確な台詞は忘れました、すみません)、別々の布団で寝る、明確な恋愛描写が無いetc...
ただ、あくまでこれらは大した力のない些細な事実です。
それらを帳消しに出来る違和感のあるシーンがあります。
全裸のアスカに対し、ケンスケが動揺する訳でもなくタオルを肩にかけるシーン。
まるで恋人のようとも解釈出来るシーンですが、
終盤でようやく種明かしされることになります。
式波アスカは、アヤナミシリーズと同様、クローンだと判明します。
つまり、先ほどのシーンはかの3番目の綾波がタオルだけでシンジと遭遇したシーンと対比されていることになります。また、アスカは誰かに頭を撫でられたかったと回想シーンで、シンジとその両親を眺めています。ここから、アスカとケンスケの関係は父とその娘の関係だと暗示されています。
アスカファンの皆さん、良かったですね。
(自明ではありますが、エヴァのテーマの一つに親子というものがあります。シンジとゲンドウ(息子と父)、アスカとその母(娘と母)、レイ(親のいない子供)。今作はその解消が全てなされていますので、そのことからもアスカとケンスケの関係は親子だと言えます。)
■エヴァは終わったのか?
これについては似たような記事はありましたが、
不完全だったので補足します。
アヤナミレイが作中、こんな質問をトウジの嫁さんへします。
「さよならって何?」
これに対する答えは「また会えるようにというおまじない」でした。
この台詞を覚えているかどうかで、
「さようなら全てのエヴァンゲリオン」というシンジの言葉の解釈が全く違ってきます。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の「:||」はリピート記号であることからも同じ結論に達します。
要するに、本作はエヴァのファンをさよならと突き放すものではなく、
またいつでも思い出してくれということなんだと思います。
最後のオチはただの原画が出ることからも非常にメタ的で、
綾波でもアスカでもない女性と一緒になり、
さあ現実(外)へ歩みだせという強いメッセージですが、
それでもエヴァは終わらないと。
■エンディング曲について
以上の点を踏まえて、エンディング曲をシンジ(観客)視点でみると
「この世の終わりでも 年を取っても 忘れられない人」とは
マリではないでしょう。
綾波なのかもしれないし、アスカかもしれない。
(他の方の考察で詳しくありますが、
マリは新劇場から突如現れた、エヴァにとって”外”の存在)
↓記事
ttps://realsound.jp/movie/2021/03/post-723725_3.html
逆に言うと、レイとアスカが他の男とくっついたようにミスリードしており、
気づかなかった方にはそれでさよならをしてくれていますね。
本当に良い終わり方だったと思います。
余談ですが、アスカ視点でこの曲を見ると見事に意味が通ります。
理由として、確証はありませんが、映画館で配られたパンフのアスカの手の構図はモナリザの逆を意識している?
歌詞の「私だけのモナリザ」と対比で、モナリザ≒アスカ、モナリザ≠アスカ両方とも取れます。単に≒ならモナリザと同じ手の構図にすればいいので、もしモナリザの意図があるなら「モナリザではないがモナリザを意識している」=歌詞はアスカ視点と解釈するのが正着かもしれません。