押見修造による漫画作品、『惡の華』が名作だったので考察。ネタバレを多く含むので未読の方はスルーして下さい。
前書き
この考察では混乱を避けるため作中に現れる”フツー”に反するものの象徴を「惡の華」、ボードレールの書いた原作を『惡の華(ボードレール)』と表記します。
「惡の華」とは
正確な事は『惡の華(ボードレール)』を管理人が読んでいないので分りませんが作中の主人公の台詞に「この本には…闇の感情が渦巻いてる この町にいる平凡な奴らには一生理解出来ないような哲学が! これは俺そのものなんだよ!」というものがあります。これが「惡の華」の定義でしょう。それと同時に主人公の。
キャラクターについて
仲村さん
作中のヒロイン。個人であると同時に「惡の華」の象徴的存在。分りやすくいうのなら大衆…要は”フツー”を逸脱している人物。詳しくは後述しますがニーチェ哲学における「超人」そのもの。
佐伯さん
作中のヒロイン。仲村さんと対比されている存在。ニーチェ哲学における「畜群」。
春日くん
本作の主人公。「超人」の素質を秘めながら「畜群」として生きていたが仲村さん(「惡の華」)と契約を結ぶことによって「超人」側へと引き込まれていく。
対比されている重要シーン
(i)第1巻において教師がテストの返却をしている場面があります。ここで佐伯さんはクラス1の成績であるのに対し、仲村さんはクラス最下位の成績をとっています。これはテスト=知性であると同時に社会性の評価でもあります。しかしその表面的な見方から一歩踏み込んだときに、本当に”頭が良い”のは――
(ii)第1巻において仲村さんが春日くんを押し倒し馬乗りになり、服を脱がし佐伯さんの体操服を無理矢理着せる場面があります。ここから主人公の「惡の華」が本格化し始めるというシーン。これに対し4巻で主人公が仲村さんを引き倒す場面があります。そして主人公はこう言い放ちます。「今度は僕と契約しよう このクソムシの海から…這い出す契約を…!」と。これは自ら「惡の華」へと踏み込むことになりません。そして、最終巻において春日くんが仲村さんを引き倒し海に引き倒すシーンがあります。これらの場面は明らかに対比されています。ここから春日くんの「惡の華」が終わりを迎え、仲村さんと決別するシーンであることが分ります。仲村さんが「二度とくんなよ ふつうにんげん」と言い放ちそれに「ありがとう」と返すのはそのため。
(iii)主人公が仲村さんと山の”向こう側”へと向かう前に、家から飛び出した主人公を心配した母親が自転車で主人公を探し回っているのを見た仲村さんは「バカみたいだね」と言い放ちます。このシーンの後に主人公と仲村さんは自転車で山の”向こう側”へ。このとき同様に自転車で佐伯さんは自転車で主人公を探し回っています。ここは明らかに佐伯さんと主人公の母親、主人公と仲村さんとが対比されています。
(iv)夏祭り最後の日、一度は完全に咲いた「惡の華」、しかし仲村さんから突き飛ばされる事で主人公の「惡の華」は閉じてしまいます。このシーンと対比を受けているのが最終巻の再び咲いた「惡の華」。
なぜ仲村さんはあのとき主人公を突き飛ばしたのか
なぜ少年編の最後、夏祭りで主人公と自殺しようとした仲村さんは主人公を突き飛ばしたのでしょうか。
100%とは言い切れませんが、十中八九答えは瀬戸口廉也の『CARNIVAL』にあります。
作者が『CARNIVAL』をプレイした事があるかは分りかねますが、この夏祭りは『CARNIVAL』のそれと近いものです。
『CARNIVAL』のテーマは大勢の人間がカーニバル(夏祭り)で楽しむ中、理不尽にさらされる少数の苦しみを描いたものでした。(詳しくは『CARNIVAL 考察』を参照)
仲村さんは、大勢が楽しむ世界へと主人公を押し出したのでしょう。
自分の苦しむ世界から主人公を突き放す仲村さんの優しさで間違いないと思われます。
そしてなぜ佐伯さんがあの時もし二人が自殺したら悔しくてたまらないところだったと思ったのか。
それは恐らく『ジサツのための101の方法』と同じく自殺=ジサツ(自己実現)だから。
この漫画のラストについて
春日くんは仲村さんと決別し、常盤さんと結ばれた未来の夢を見ます。
”フツー”の世界。平凡な未来を。
しかし彼は夢から覚めたら、今まで何か書こうと思っても何も書けなかったスケッチブックを手に取ります。
まるで描かずにはいられないといわんばかりの表情で。
「惡の華」を。
このシーンの始め、春日くんは一人何も身に着けず広い草原に立っています。
原風景とも取れますし、死後の世界とも取れます。
ここで4巻を見てみると同じく主人公が夢を見るシーンが。
そこでは仲村さんが一人で座っており、一面には惡の華が咲いています。
これら2つのシーンは対比されています。
4巻の夢の風景は仲村さんの、11巻の夢の風景は春日くんの本質であることは間違いないでしょう。
そしてシーンは再び”あの日”へと。
このシーンは「二度とくんなよ ふつうにんげん」という台詞と対比しています。
結局、春日くんは仲村さん(「惡の華」)の所へとやって来てしまった。
これはニーチェ哲学の永劫回帰に他なりません。
その世界で主人公(読者)の選択は前と同じなのでしょうか。それとも――
総評
フツーに生まれて、フツーに学校でて、フツーに就職して、フツーに恋人作って、フツーにセックスして、フツーに結婚して、フツーに子供できて、フツーに死んで。
そのあり方に疑問を持った事はないでしょうか。
文学作品でも多く取り上げられるテーマですが結局”フツー”に悩む登場人物は”フツー”になってその物悲しさに読み手は懐古と自己憐憫へと浸るわけです。
しかしこの漫画は違う。
仲村さんはそういった人々に言い放つのです。「クソムシが」、と。
そんな存在はもはや人間ではないと。
今までどんな文学作品も許されなかったオチをこうも上手く描いてくるとは脱帽です。
これぞまさに問題作。
掲載して宜しいか分りかねますが素晴らしい考察をしてらっしゃる記事を見つけたので紹介させていただきます。私の考察より遥かに多くの点を見てらっしゃるので是非以下のページを見てください(ttp://hondananosukima.hatenablog.com/entry/2014/06/23/203911)